
パネル討論
日時:2022年8月5日(土) 8:30-10:30 JST
テーマ:ことばとアイデンティティ
[録画事前共有、日本語字幕、日本手話通訳]
要旨
2023年度の研究大会のテーマは「公正な言語教育を求めてーバイリンガルろう教育を再考する」です。ただ、同テーマはろう者に関わる問題だけではなく、MHB学会のその他の研究領域と多くの普遍的な課題を共有しています。そこで、本パネルディスカッションでは、その課題の一つである「言語とアイデンティティ」を取り上げ、それぞれ異なる分野において「当事者」として研究をされている3名の研究者の方をパネリストとして迎え、「言語とアイデンティティ」の関係について語っていただきます。
音声言語のバイリンガル子育て・教育の中で、「言語とアイデンティティ」というと、これまでは、当該のバイリンガルとして育ちつつある子ども(や成人)の言語力の強さと、その言語が主に使われている国や民族の文化への親近感や自分への取り入れなどの相関関係を量的に測ったり、そのような言語的文化的親和性を作りだすのによい教育方法やその成果を模索したりする研究が一般的でした。
しかし、本パネルディスカッションでは、もっと広い視座からこの課題にアプローチすることにしました。まず、一人目のパネリストとして、日本の少数言語を取り巻く社会的状況をふまえ、アイヌ語の現状およびアイヌの人々の言語とアイデンティティの関係について、北海道大学アイヌ・先住民研究センターの北原モコットゥナㇱ氏よりお話をうかがいます。次に、二人目のパネリストとして、日本におけるろう者の言語生活と言語教育の状況について、ご自身も日本の聴覚口話法と日本語対応手話の中で教育を受け、現在アメリカ手話と英語の通訳養成教育の一環としてアメリカ手話を教えていらっしゃるフレーミングハム州立大学の富田望氏にお話いただきます。最後に、三人目のパネリストとして、日本に住む「マジョリティ」が、自分とは異なると自らが考える相手に出会った時の言語実践の問題とこの課題への取り組み方を千葉大学の批判的社会言語学者、オーリ・リチャ氏からうかがいます。
このように本パネルディスカッションでは、学校教育の中で複数の音声言語を学ぶ学習者といった範囲を大きく超えた、政治、社会、教育システム、マジョリティを含む視座から「言語とアイデンティティ」について考察していきたいと思います。
登壇者
(1)北原モコットゥナㇱ 氏(北海道大学)
言葉の復興と心の回復
(2)富田 望 氏(ハーバード大学)
私と日本手話 私からみた日本のろうコミュニティー
(3)オーリ・リチャ 氏(千葉大学)
否定されるアイデンティティ:「異」の当事者が抱えるアイデンティティの葛藤
発表要旨
パネル討論 1
言葉の復興と心の回復
北原モコットゥナㇱ(北海道大学)
アイヌ語は、2009年にユネスコが発表した日本の8つの危機言語のうち、最も危機的な状況にある。アイヌ語の状況は、近世以降の和民族による武力・経済による支配、これを受けた明治政府の政策によって国家に統合される中で深刻化した。生活のために日本語が必須になったことと過酷な差別によって、言語・習慣の維持は困難となり、自言語を知らずに育つことが一般的になっている。一方「言語を喪失した者は、アイヌとは呼べない」とする認識も広まっており、アイデンティティの危機に直面することも多い。これらに対しては、危機言語の学習環境を整えることと、マジョリティ言語の特権性を認識するなど社会の意識改革を同時に進めることが求められる。
パネル討論 2
私と日本手話 私からみた日本のろうコミュニティー
富田 望(ハーバード大学)
私から見た日本のろうコミュニティーの様相と、私のアイデンティティーと言語についてまとめる。私の場合は、聴覚障害者としての生き方が、マジョリティーによって与えられたものであり、親がろう者でも文化的・言語学的少数者としてのアイデンティティを確立するまでの過程は簡単ではなかった。現状問題として、ろう文化や手話を学ぶ機会がなく、学校教育でも手話が重要視されていないこと、それは(文化的・言語学少数者としての)ろう者が直面する構造的差別として指摘している。また、複合差別についても言及し、ろうコミュニティーが受け皿としての役割を果たすべきだということを強調する内容となっている。私個人的には「共生とは痛みを伴うもの」と感じる。ろうコミュニティーはその痛みを緩和する存在であり、今後もそうであるだろうと予想する。
パネル討論 3
否定されるアイデンティティ
ー「異」の当事者が抱えるアイデンティティの葛藤ー
オーリ・リチャ(千葉大学)
言語とアイデンティティは深く結びついており、ビロンギング・belonging「私はここに属している・ 属す」という概念は二方向で、まず私自身が「私は○だ」と思うこと、そして社会が「あなたは◯だ」とすること、その二つの矢印が一致して初めて人間は「属している」と感じる。しかし「異」への異常な執着の結果、その特別性に囚われアイデンティティが否定されることもある。例えば、「私は日本に属す」という相手に対し、そのアイデンティティを受け入れず、「ガイジン」、「ハーフ」のような新しい「異」の枠に捉えなおそうとすることがある。公正な言語教育はこうしたアイデンティティの問題を避けては通れない。本パネルでは、「異」の当事者が抱えるアイデンティティの葛藤を切り口に公正な言語教育の実現に向けてのヒントを探る。
Ohri, R. (2020). Above and Beyond the Single Story. In D. H. Nagatomo, K. A. Brown, and M. L. Cook (Eds.), Foreign female English teachers in Japanese higher education: Narratives from our quarter Hong Kong: Candlin & Mynard
Ohri Richa(2016)『「○○国」を紹介するという表象行為-そこにある「常識」を問う-』 言語文化教育研究第14巻,査読有, pp. 55 – 67
オーリリチャ (2015)「ちいさな手」文芸社
登壇者紹介:

北原モコットゥナㇱ
1976年東京都杉並区生まれ。祖母のアイヌ名を知ったことなどを機に、アイヌ語に関心を持つ。北海学園大学人文学部卒業。千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程修了(学術博士)。アイヌ民族博物館学芸員を経て2010年より北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授。アイヌの宗教文化と物質文化、特にイナウについて研究し、アイヌ語、口承文芸、芸能などの研究にも携わる。

富田 望
日本生まれ、米国在住のろう者。令和2年からフレーミングハム州立大学で助教。社会正義や手話言語学などのクラスを担当。令和1年にAsian SignersというNPO団体を設立、創設者の一人として事業に関わっている。令和5年秋学期よりハーバード大学のMeaning &Modality Linguistic labで博士研究員。これまでの研究題材は日本手話のメタファー、日本手話におけるフィラー、日本のろうコミュニティーにおける言語ハイジャックなど。言語と文化の結びつき、また図像性、言語変化、社会正義などが主な興味のあるトピックだ。JSL-lex とよばれるコーパスを立ち上げ中。

オーリ・リチャ
お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科修了(博士:言語学)。専門は、批判的応用言語学、クリティカルペダゴジー。現在、千葉大学でIntroduction to Multicultural Japan(英・日)、 クリティカルシンキング、English for Specific Fields等を教える。2019年に学生とNew Face of Japanプロジェクトを立ち上げ、精力的に取り組んでいる。
Website: www.richaohri.com